聖便所

聖なるトイレの日記メモその他。

仕事の手を止めて書くブログに依存性があるかは議論が別れる所だってばっちゃが言ってた

☆芸術について

考えろ。そして感じろ。

俺は芸術を観る時はそうするほうが良いと思っている。
こと日本では芸術を「わからなくてもいい、感じればいいんだ」という側面で語りがちである。入門はそれでもいいが、そんなのは超絶大嘘である。それは世の中にある芸術を1/4ぐらいしか理解したり把握したりすることができない。そんなん有り体に言ってもったいないのだ。チョーもったいないのだ。3/4捨ててるんやぞ!?いやむしろ1/4でも理解できれば良いほうだ。

これらは音楽でも、美術でもそうである。

現実には芸術は理解の為にたくさんの知識を必要する。「直感的に良い」というものがあるが、直感的に良いと思うその直感はすでに「直観」であり、脳の中の即時記憶のメモリに読み込まれた知識が脊髄反射的に答えを返しているだけだ。なので、学習がなければ直感的に良いと思える事は少なくなる。

もともと、美術も音楽も知識人と金持ち貴族達のものだった。そしてしばしば知識人は金持ちであったし、貴族は知に長けていた。ちょっと下ってもしばらくは文化的に豊かな人達のものだ。芸術は衣食住の十分に満ちた上に成り立つ。彼ら文化的な人々はそれを堪能する術に長けていた。それはつまり彼らが一定の教養を有し、同じ文化的文脈に立脚せざるを得ない世界を作っていたからである。

例えば音楽だったら(俺の専門は音楽なので)、宗教音楽のみだった時代は省くとして大いに発展した時代を見ると

※貴族のガールの会話だと思ってください

「ウフフ私ピアノを嗜んでまして。」
「あら素敵ね、わたしはフルートよ」「あら、せっかくだからこないだ出版されたモーツァルト氏の新曲でもセッションしましょう。楽譜もあるわ。」
「いいわ、でも最近の作品は対位法が複雑でうまく弾けるか不安だわ」
「あら内声を丁寧に追っていくのは楽しいのよフフ……」

みたいな会話をするなかで楽しまれてきた、高貴な嗜みから発展してきている。才のあるものはサロンでコンサートを開き、その大きめな「室内」で人を集めて聞いたのが「室内楽」なのである。集まる人は皆高貴なのだから、その芸術の解釈に必要な知識は多くても全く問題ない。理解できないほうが恥ずかしい世界だからだ。教養はあるほうがよい。

いやでもそのままでも解るものもあるじゃんという反論も多いにあると思うが、それは自然に学習した今までの人生の中での積み重ねで理解できるようになったというだけで、同じような文化文脈を共有していないのなら伝わらないのである。たとえばもし生まれてこの方一切マンガやアニメやラノベを見ていなければ、ライトファンタジー的な作品、お約束の乱発される展開、アニメ的な作品はひどく風変わりなものとして受け止められるだろう。また、世代間で娯楽の好みに差が出るのも文脈の共有によるものである。その時の新しい娯楽コンテンツや時代性を常に最も若い世代とともに学習しようという意欲を継続的にもてていれば、40代でも60代でもいくらでも今の最新のコンテンツを楽しむ事は可能だ。大概の人は社会に出たり、付き合う人が限定されてきたりという中で、コンテンツの文脈から取り残される事で一足飛びの受容ができなくなって娯楽から遠ざかっていくのだ。逆に、ちょっと前に戻ってコンテンツの連続性を追っていく事で脱落した文脈の流れに戻っていく事も可能だ。

つまり、すべては(意識・無意識を問わず)学習なのである。

もっと古い芸術の時代においても同じことだ。その当時の文脈を追うことで初めて作品を「観る」事ができるのだ。当たり前だ。俺らは当時その時を生きてない。そのままで解るわけがない。分かる部分は今もいきている共通の文脈を持つ部分の所だけだ。大切なのはそこで「俺の感性ではわからん」という自分の中に原因を帰属させてしまう事を避けることだ。もちろん感性的にダメなものというのは存在はするが、まずは「知らない世界が多すぎるだけ、もっと見れば解る」という心構えでコンテンツを受容していかないとそれすらわからない。逆に言えば知っていくことで確実にある程度のとっかかりは見つかるはずだ。

まずは知らなきゃすべてが始まらない。Don't think, feelではない。Think, and feelだ。

 

 

☆人への接し方

俺は人に厳しくする事が出来ない。

ほんの些細な事から割りと仕事に関わる所まで、例えば遅刻するときも(まぁ俺も遅刻はするよな)とかレコーディングの時でも(あとで俺が直せばいいだけだよな)とかそんなかんじだ。

人に厳しい態度を取ることは自分が自分に対してゲロ甘である故に一貫性上矛盾が生じてしまうからだ。なお自分に厳しくするという選択肢は存在しない。

もう一つ、わたしが厳しく接せられた場合には大概心をかなり頑なに閉ざしてしまう傾向がある子供だったからというのもある。(今もあまり変わってはいないかもしれない)

人の心を開く為にはまずその人の内側に相手が自分に、自分が相手に対する多少の精神的依存性を表面上でも持たせる必要があると思っている。多分これが親友のメカニズムだと思っているのだが、多少いびつな認識かもしれない。なんにせよ生きている以上なんらかの依存は必要だ。

依存状態にある相手からの働きかけなら全力で応じる。それはもはや相手の精神的なアセットが自分の一部として組み込まれているからだ。あるいはその逆だ。
それらで子どもと呼ばれる季節の間、俺がずっと抱えていた「優しくしてくれればいいのに」という不満を他人に与えない為の行動原理を守っている。
そうして「どんなにダメでも、生きているだけでそれでいいよ」みたいなたぐいの言葉で救われる人は大勢いる。俺は割りとこの手の言葉を友人にはかけてしまいがちだ。本当にそれでいいとも思っているし、発達した現代日本のインフラではそれを救える方法がいくつかあるからだ。

もちろん現実的回答では、それじゃぁまぁ、ダメなんだろうけども。惨めな問題はいくらでもある。けれどそういう精神的な飢餓感を慢性的に抱えている人にとっては砂漠の水筒に匹敵するほど泣きたくなる言葉だということも知っている。
だから、まずどうしても厳しくするよりは優しくしたいと思ってしまうのだ。