聖便所

聖なるトイレの日記メモその他。

お通じって言っても居酒屋のお姉さんはそのまま表情一つ変えずオーダーを通したよ。

☆馴染みの店が無くなるという事

昔はよく行ってたカフェがとても遠くへ行くらしい。当時はよく通る道ぞいにあったのだが、今はそこを通る事もなくなったから少しだけ疎遠になってしまっていた。それでも月1ぐらいは行っていたのではないか。正直10年来食べ続けてきたので、飽きてないかと聞かれたら若干嘘になる。

まぁでもさりとてしかしながら、高校生ぐらいの時から行っていたからショックはでかい。なにより美味しい。そして他に代えがたい雰囲気がある。森の奥にあるような佇まいで、薄暗い店内、一点一点手作りのような調度品・宝石のような木漏れ日が通るガラス・レトロな木炭ストーブやドライフラワーなんかがそこかしこに設置されていて、理想とするキレイな森のカフェというイメージだった。森カフェのイデア

初めて行った時はその雰囲気に気圧され、自分のような子供が一人で行くのは場違いだったのではないかと感じていた。高校生ぐらいって、チェーンでない店に一人で入るのに気後れするような感情があるように思う。少なくとも俺には想定外の世界への畏れのようなものがある(ない人が羨ましかった)。だから何度もテイクアウトだけしては帰り、ある時数回目にしてようやく

「ここで食べます」

と言えたのだった。アイアムボンレスムチムチチキンジャストナウ。

その後は店主さんとも少し話すようになり、ある時はイベントのチラシを置いてもらったりしたこともあった。その節は大変お世話になりました。けどまぁ、高い天井に響くのが食器の音と空調のかすかな音、だいぶセンスのいいモダンなチョイスのBGM(エクスペリメンタルなアンビエントやニュージャズなんかも流れる!)ぐらいしか無いような、話し声が殆ど聞こえないタイプのカフェだから店主さんと話し込むコトもほぼなかったのだ。いや言い訳かもしれない、実際には話せばもっと話が弾んだのかもしれない。が、俺がもとよりコミュニケーションを積極的に取れない性根故にあまり多くの会話が発展しなかった事を、それでも少し後悔している。

今では近くに様々な選択肢、つまり様々なタイプの店が出来たものだからあえてここを選ぶ理由も強くはなくなった。けどそれでもなんだかんだ便利だし、なくなったらなくなったでやっぱり困るんだよな。

選択肢ができたという事はそれだけ近くに、種々の人の広げた色々な可能性が順調に広がっているという事だ。言い換えれば豊かという事でもある。豊穣の地・東京。最も飲食業なんてのは水物の傾向が強く、浮かんでは消え浮かんでは消えで1年持たない事も決して珍しくはない。奢れる前に久しからずや。好きになったものがある日唐突にそこで途切れる悲しみも大きい。店の消息を熱心に追うと、意外とどこかで新しいコトを始めていたりもする。それが意味するのは、同じではなくともいずれ別の可能性に出会えるかも知れないという事だ。自分の知らないうちに、全く別の店が彗星のごとく現れる事もよくある。大概がノーマーク。そんな嬉しさが日々にあるだけで希望っぽい。そしてそんな豊かな可能性にかけて、今日も俺はニューオープン情報を漁りつつ風呂に浸かる。