聖便所

聖なるトイレの日記メモその他。

5年らしい

 

よういちが震災の時の気持ちをメモしていてあーそれめっちゃいい俺もやるべきだわやりたーいって思ったので書くことにした。
彼は良い小説家だ。

彼のような名文はかけないにせよ、自分の気持ちを並べるのは記憶が死ぬほど頼りない上に筆不精な俺にとっては少なからず重要な事だし、なにより筆が乗る日は多くないので全部書いてしまいたい。

 

 

あの日俺が何をしていたかメモが残っているわけではないので、記憶を頼りに書くことにする。

その時間、俺はトイレに篭っていた。ウンコだ。ウンコである。

節約の為日のあまり入らない薄暗いトイレに腰を掛けて優雅にお尻を拭き終わった直後ぐらいの話。
大きな地震特有の音が揺れに先行して届く感覚がして「あこれデカいな(ウンコがではない)」って想定した揺れの倍ぐらいの勢いでしかも長々と揺れてアトラクション気分を盛大に味わったのを覚えている。
4DXもメではない。4DXってそういう認識であってる?
揺れが収まるやいなやとりあえず不安に思いながらトイレを流して(流れた)家族の安否を確認したような気がする。
幸いすぐに全員連絡が取れたが、父の帰宅は遅くなりそうだった。
テレビをつけ、次に何をするかと言えばTwitterである。情報インフラは09年からTwitterに支えられているといっても過言ではない。
検索ボックスを大量につけ、ありとあらゆるフィードを流してキーワードを拾った。
あーこれは大災害だなぁとものの数十分で知ることになり、それと同時に不謹慎ながら俺は言い知れぬ高揚感を得た、んだったと思う。
不謹慎というこの言葉のせいで高揚感を得たことを表明することすら難しい時間がその後2年ぐらい続いたよね。
(当時はこの何か走り出したくなるような高揚感が何なのかは解っていなかったし、それを野次馬根性と断定してしまうのも少し違うような気がしていた。)
自分が想像以上に事態に悲しみの感情を抱いていなかった事を不思議に思った。あまりに大きな災害に対する憐憫という感情を基本的に持てないのだ。距離感が遠すぎるからだと思う。
東京で、しかも何ができるわけでもない人間だ。出来ないことを不安に思えないし、他人に対して同情の類が湧きづらい性質なのもあってきっとそんな感情しか抱けなかったのだと今は分析している。
とりあえず義務的に居間で余震に怯える母を安心させつつ、とりあえず窓を簡単に開けるようにして退路を確保していった。その他諸々とりあえず次の緊急に備えられるようにした。

一方Twitterでは普通にふざけていた。画面越しでもみんながいるというのは、本当に人の気を平和にするものだと思う。SNSが今も心のひとつの拠り所となっているのは間違いない。
つぶやきを見たが、断水だったか忘れたが、その後風呂の掃除ができない事に憤っていた。なんなんだ。平和ボケも大概にしろ。
子供は元気に外で遊びまわっていた事を、外からの声で知った。基本的に片田舎は平和だった。帰宅難民も交通機関の乱れも画面の中でしか知らなかった。
原発の話は当初かなり楽観的に見ていた。ネットの空気は割れていた。基本的に陰謀論には与したくないので、政府の発表をとりあえず信じる事にした。
結局それは混乱して二転三転し、最終的に放射能汚染の状況を知るまでにだいぶ時間がかかった。当時の俺の楽観さには恥じ入るものがある。その後「信じること・信じ過ぎない事」について反省することになった。

地震の事態全容が解るようになり、とにかくすぐ思った事は「ああこれで日本はしばらく非日常に入る事になるなぁ!」という事だ。
戦後以後復興、競争、発展とテーマを変遷させ、ゴールである頂点のあとバブル崩壊、その後の長い停滞と平和の中で生まれ生きてきた僕達にとっての初めての社会的なゆらぎが発生した。
俺たちにとってはそんなこと生まれて初めてだ。大仰な話だが少なくとも今も思っている。
そうして大きな傷を代償にして、新しい目標を得たのだろう。
地震後の非日常が長く続くという思想的な期間が継続するという事で、日本人は戦後初めて思想や行動原理を異にする人と共に生きているのだという事を実感したんじゃないか、と、わりと早い段階で考えた。ストレスをかけられたとき人がどう動くかで本質が見えるとはよく言うが、人々の間に全体的に広く厚くストレステストされたのだと思っていいと思う。
俺の家族ですら刹那主義的な俺と冷笑的な弟、安全であろうと過信する母と、危険を必要以上に考える父でやや思想的な断絶があった(危険厨と安全厨という言葉に揶揄されたのも懐かしい)し、ネットではもっと悲惨な例をいくらでも見たし今でもきっと見れる。

 

ネットでは本当に本心だろうがテンプレートのような憐憫の言葉が早くから並び、哀れみの海と表現される世界が広がった。

そして慰問的な作品を発表するアーティストが続々現れた。アーティストは作品に理由を欲しがるから、言葉は悪いが「うってつけの状態」だった。
俺も発表しようかと思った。愚かにも力の活かせるチャンスだと思ったからだ。でも、それは今じゃないかもしれないという葛藤もあって、しばらくは状況を伺っていた。
しかしそれが本当に即日の段階では意味のない事であり、高揚感に突き動かされたアーティストの先走った力のなき優しい行為だったと知るのにそう時間はかからなかったように思う。
そしてそれらはすぐに批判にさらされる事になった。創作が力になるフェーズは事件が記憶になってからだという事でだ。
不謹慎というワードでなんでもブロックすることができたの本当に狂気だったよね。
恥ずかしながら俺は行動が遅い事によって批判を免れた。なんて情けない話だ。いや本当に。チキンすぎて恐れ入る。
手の遅さ故に体面的賢さを保てた創作者は恐らく俺だけではないんじゃないかと思っているが、俺だけだったらごめんなさい。

でもその後地震をきっかけに何かが変わったと思い、災害に直接関わらずとも何か新しい行動ができるんじゃないかと思った人は多かったはずだ、と、思う。
それが人々のボーナス的な原動力になっていた事は間違いない。どれだけの実を結んだかは知らないが。少なくとも俺は行動する理由の一つになったし、今も続いている。


ライフラインの問題になった時クリエイターてのは本当限りなく無力だ。「衣食住が満たされて初めてアートは意味を成す」と教授は言っていた。
引きこもって普段体力もなく、他人を生かすに必要なスキルにも縁遠く、募金できる金もそんなにないアーティストは、ハッキリ言ってお荷物だ。
だから思想的な問題にのめり込んでいく人が多いんだが、もちろん俺も例外ではなかったと思わされている。
今は幸いアートが意味を少しでも持ちうる時期に来たと思うが、しかしそもそもアートの意味が半分ぐらいごっそりコモディティ化されたようにも感じている。

そういえばボランティアには行った。一回行った後、時間を置いてもう一回行った。
一回目はボランティアバブルともいえる人ごみの中のゴミ拾いだったが、二回目は誰もいなかった。そして、行った作業は二回目は震災の記憶の保全というか、慰問に近い内容だった。平たく言ってやることがなかった。
恐らく今もまっ平らのままの街は以前と同じ形で復興する事はないだろう。恐らく経済的に重要な部分ではないのだ。残念な事だが、そこはもう時が終わってしまった場所なのだと思った。
それでもそこに思い入れのある人はいて、微力ながら記憶を受け継いでいるのだけれど、少なくとも今まだそれを復興する力はどこにも残っていない。
そして、恐らく完遂しないのではないかと考えている。利用方法があれば別の形で土地は使われ、街はその形をダイナミックに失っていく。道とねじ折れた外灯だけが残っていた。

 

社会は震災後アップデートされてきたと思う。どうしようもない各思想的派閥の対立から、対立そのものが周知されることによる「ああ、いつものかよ」っていうマンネリ化によってだ。
進化していない部分はもちろん大量に残されてはいるけれども。
しかしまぁ、5年経ったらしい。ある意味で僕の中でもあの時から時間は止まっている。
ネットは時間に対してあまりにルーズだから、ネットで生きている僕にとっての5年はあったようななかったような、茫洋とした巨大な空間だ。


しかしもう自分も変わらなくてはいけないと、どこかで気づいているのだ。
そんな気もしている。