聖便所

聖なるトイレの日記メモその他。

2023-02-07 日記

恩師に連絡を取った。

ここ10年あるいは15年、ずっといつもごく僅かに、顔を上げて生きられないような気持ちで生きてきた。どんな仕事をしても、どんなに人に認められても自分は怠惰で何も成果を挙げられず誰にも微妙に相手にされず、わずかに必要とされないそういう存在なのだとうっすら思っていた。

こういうのは多分一般的には自尊心が削られていると表現したほうがいいのかもしれないが、俺は自分のメンタルの状況を理解するのが苦手・嫌なので、なぜ自分がそう思うのかは深く考えないようにしていた。

なのでものすごく必要以上に、「人は本来自由であって何者にも縛られず存在するだけで尊いのだ」というテーゼを繰り返してきた。わからないが多分そうすることで自尊心を傷つけずにすんだからだ。自分は生来反発精神の塊なのでそういうのも7割ぐらいあると思う。

でも、やっぱり顔をあげる事ができないので、自ら誰かに連絡を取る事もなく、誰かに報告することもなく、クリティカルな場面で旧友から逃げるようにして生活している。
古い友人も今の友人も誰とも分け隔てなく広く付き合い続けよう、つながりつづけようというのが俺の一種の信条なので、それもまたカモフラージュになっている。実際には大切な繋がりを必死で隠して見えないようにし、なんとなく距離を取り、それとなく存在感をなくしたまま逃げ回っているのを覆い隠しているのだ。

実際、俺は怠惰すぎ、堕落的すぎる生活を送っている(いた)と思う。
経済的な危機に陥ったのも一度や二度ではない(友人には感謝している)
だからこのままずっと顔を上げきれないまま生きていくのだと思っていた。

面接受かったときも信じられなかったし、会社受かったときも信じられなかったし、なんならまだ働いてるのが信じられない。考えてみれば異常なんだが、それほど俺の感情が、自分の能力に対して疑心暗鬼になっているという事なんだと思う。
会社の上司はめちゃくちゃ良い人だ。
ステータスに難のある俺の事をわざわざ強く推してくれたらしい。普段嬉しい事じゃ泣かないんだけど、そんな事あるかよってチャット越しに泣いてしまった。
同時に俺が十数年で削ってきた穴がメチャクチャデカいんだなって事がそこで理解できた。

理解できたので、恩師にありがとうと連絡することにしたのだ。
もう出来ると思ったから。

体調とか進捗の備忘録

進捗が悪い。
やらなきゃいけないことはわかっているが、一日の半分以上は起き上がれないような気さえする。実際には1/4ぐらいだろうが、それでもなにもできていない事、やる気がぴたりとも起きないことがつらい。
好きだったお店が一ヶ月前にしまっていた。おばちゃんに最後の挨拶ができなかったことを毎晩思い出す。つらい。
仕事があるのは素直に嬉しい。
ちょっとしたことで泣くようになった。何もしていなくても突如涙が流れる。感情的になってしまう。
本当に身体がわなわなして起き上がれなかった冬よりマシだが、それでもつらい。仕事の進みは悪い。
就活を放置してなにもしていない事がつらい。タスクのシートを見るのがつらい。
書き物の仕事も締め切りをとうに過ぎている。進捗を聞くのが怖い。
何かを説明するとき、人と話す時に胃が痛む事に気づいた。車の中だと収まる。声を出すのも効果的だと気づいた。
説明するのがつらい。
ドキュメンタリーを見るのが楽しい。衝撃の瞬間が面白い。FFは楽しいけど、少しやったら疲れてしまうから、あまり触れてない。
コレを書きながらまた泣いている。
ともだちがありがたい。

話が長い人の話をどうやって途中で区切るかって難しくない?

昔近所にちょっと年下の仲の良い子が2人いた。
どうも昨晩、その片方が救急車で運ばれたらしい。詳しくは知らないが、大事ないと良いのだが。
ふと、そういえばもう彼とは十数年話していないと思った。
二人いた幼なじみは二人共とそれぞれ別の理由で、おそらくはふとしたきっかけで仲が悪くなってしまったからだ。それ以後彼らは近くに住んでいながらも挨拶もマトモにしていないと思う。バツが悪いというのはこういう事を言うんだろうが、自分がまさかそんなテンプレートで文学的な関係性を持っているという事を、今の今までまじまじと認識したことがなかったのは意外も意外だった。

仲悪くなったそのきっかけがなんだったかは覚えてはいない。
もしかしたら本当に大したことじゃないのかもしれないし、あるいは言葉に不用意な俺の言葉で相手を傷つけたのかもしれない。少なくとも片方はその可能性が高い。記憶に何一つ残ってないからわからないけど。

ああそうだ。

こうやって嫌なことの記憶にフタをしていく所が良くない。
きっと僕の人生に横たわるボトルネックというか、詰まりモノのような所なんだろう。
記憶をすぐに整理してしまうのはそのことそのものは悪い事ではないんだが、それが自分の非に関わっているバツの悪さだけとなるとあまり良いこととは思えない。
そうやって自分の恥から逃げ続けて、未だに僕は逃げ続けている。

サルミアッキの宣伝文句は「makes people talk」なんだけど笑い話にしろってことでOK?

ドラマティックな事がないまま日々を過ごしている。やらなければならないことは多いのだが、いかんせん考えると吐きそう。昔から心理的障壁と戦えないのでなんとかして長期戦で殺していきたい所である。

友人が関わっている飲み屋へ行った。
アグレッシヴな奴で精神的なパーソナルスペースのようなものが広い奴だ。利発で話が面白く、反応も早く現実的問題への対処も知識も豊富、いちいちカッコイイ。多分正確にはカッコイイのが好きすぎるんだろう、と俺には伝わった。いいことだ。
そんな彼は職を変え立場を変え、何故かリーマンから飲み屋へと転身していた。人生何が起こるかさっぱりわからないものだけど、「とりあえず攻撃の手だけを緩めずに人生を切り開いていく」のがポリシーらしい。「速度全振り」と語る現代のDEX型狂戦士である。

なるほど。人生にはそういうのこそが勝利条件として設定されてると考えられてもおかしくはない。少なくとも彼の人生にとってはそうなのかもしれない。彼は少なくともドラマティックに生きているように見える。
彼の事を素直に羨ましく思う。そう思える事を。
考えてみなくても、フリーでありながら攻撃性ゼロの俺は防戦を強いられている。昔から嫌な事を全身全力で回避し、やるかやらないかで言われたら本当に迷い続けて結局やると選べないあたりに俺の心根がどれだけ臆病かが伺える。やるならなるべく遠くから投げナイフ、ただしノーコンといったところで、自分で考えるだに本当に浅ましい。ウッ。

俺にはロールモデルなんかが廻りにいない。けれど、俺が攻め続けている人達と同じことをするのは性格的に本当に難しいだろう。彼には彼の人生の攻略法があり、俺には俺の攻略法がある、それだけが救いで、そう信じてはいるが果たして。

そんな彼はアクシデントによって突如キャッシュフローの危機に襲われていた。詳しくは省くが、生活の生命線が一個突如として破壊された。彼の生活を問いただすと一切の防御を捨てた散財生活を送っているようだ。アカンて。攻撃は最大の防御とはいえ、それは相手より自分が早かった場合である。運命とかそういう偶然の機動力に対しては全く持って無力だということをもう少し知ったほうがいいと思う。防御力を捨てて全力攻撃はアカン。クリティカルヒットで触れるダメージダイスが2倍だ。そういう所の防御は少し気をつければすぐ治る程度のものなので、せめて友人としてはダメージスワップだけでもしてやりたい。できる所なら。

彼を始めとした友人達が俺を独立した一人の存在として認めてくれる事を有難く思うし、そうなるだけの裏付けを手に入れたいと切に思っている。

友人「シルバー廃材センター」俺(ディストピアかな)

世の中にはままならない事がたくさんある。

人の力になりたい、いやあわよくば依存され崇拝されたいでもちょっと面倒くさいのは嫌なのよねンーーだから人助けでとどめておきたい。わかる。

と常々思って生きているのだが、俺にできる事でも必要とされている事はあまりに多くない為、それは難しい事なのだという事を知る。せめて友達が元気でいてくれるように祈りを捧げる事だけは忘れないようにしたい。

今日は株のメモなので日記という体裁ですらない。結論も出ない。

 

 

☆タイ株・見所セクター探し

海外株を漁っている。海外株に手を出すのは手数料面でも情報面でも不利だが、それでも面白さは何者にも代えがたい。国内株の値動きがあまりにアレっていうのもある。

で、そもそも俺はタイという国が好きなので、今日は時間をみてはタイ株の狙い所を探していた。

タイはここの所経済が低迷していると2014年ぐらいには言われていたが、2015年の意識調査なんかではバブル期を匂わせるような旺盛な消費志向が見て取れる。2016年の予測では外資誘致による労働力の誘致がキモとなる等の事が書かれていた。タイは人口ボーナス期と呼ばれる最も労働者人口が増える時期をすでに越した国でもある。東南アジアの中ではGDPも高いほうで、投資ブームは90年台初頭に過ぎた目をつけるには遅い国でもある。

しかし現在のタイの民間事情はどうかというと、技術革新は止まらず、流通革命がおき、サービスセクターも充実、スマホSNSは日本以上に大流行、都会ではもはや途上国とは言われる筈もないキレイな町並みをしながらその実動かしているマンパワーの半分近くが町の市場等の”古い”システムで動いているのが魅力であり成長の伸びしろ(あるいは独自文化の喪失)でもある。個人的な実感としても、あ、この国成長するな~~って感じの力強さとか印象を受ける。どんどんきっと洗練されていくような気がする。

じゃぁなかでどこが伸びると考えるのがいいのか。現在のタイを象徴するのは前述した通り、その旺盛な消費である。タイ人は滅茶苦茶食事好きなのはいわずもがな、日本に比べるとまだまだ満たされないその欲求は留まらず(やや15年末で低迷したけど踊り場だと思いたい(希望))その他の嗜好品を求める動きが強い。

それらを支えているのは何か。まぁ普通に考えて流通である。流通を買おう。

しかしタイの流通システムは独特で、日本の現状のようにロジスティクスの会社が店から店へと運ぶのではなく、店がロジスティクスセクションを持っていてそれが事業として独立しているわけではない事があるのだ。1997年の経済低迷以後、2000年以後に外資によって流通が改善された。外資によってタイ企業が買い取られ、その後技術革新後にまた買い戻されたのだ。それまでのタイの独自のやや前時代的な流通システムが次々と改革されていった。ただそのおかげで最終的に外資のDHLのシェアがNo1となった。

ので、タイ株ではなくなってしまう。ドイツかよ。

それは全く面白くないので、次点で行く。俺はあくまでタイ株が気になっているのである。

先述した通り、大手資本が独自の流通システムや寡占構造を持っている。では狙い所は最大手セントラルグループの2つ、百貨店BigCとショッピングセンターセントラルパタナ、フード関連で強いチャロンポカパングループ(名前が面白くてすき)あたりではないか。

株価を見てみるとなんかBigCはやたら高止まりしていて買い時ではない感がする。伸びてはいるんだが……どうしたの?

しかしCPグループのフード(TB:CPF)はずっと下がってきて底を打って反転したような動き。セントラルパタナ(TB:CPN)は緩やかだが順調に伸びているという形だ。

俺が買うならCPFかなぁ。でもちょっとどれも遅かった感があるのが残念。3月に気づいていれば。

それぞれの個々の事情はタイ語がわからないときっとアクセスしづらいのだろうというところで今日のお勉強を唐突に終わりにする。

手作りパンがライ麦の味がする(普通のパン)

☆株について

諸君わたしは不労所得が好きだ。というわけで株をやっている。もちろん雀の涙ほどの利益しか出せていない。損になったとたんに俺の心は折れると思う。中国株が飛んだところで折れかけた。

TLで気づいたが、株主優待券なるものの存在をすっかり忘れていた。
僕は規模からするとクソほどの少額プレーヤーだ。それでも!俺のようなプレーヤーでも株主優待券がもらえるような少額で優良な株もなかにはある。成長安定企業や株価重視の企業を取り過ぎてて目の前の幸せを逃していた。こんなところに幸せはあるんだって気付かされてくれたんだ。が、僕のポートフォリオにはない。かなしい。嘘です。

各方面にポートフォリオを広げてはいるが、それぞれの情報を集めるのが難しい。日本株はそれなりに日本語の情報が充実しており、スレもあってSNSでの検索結果も芳しく企業の財務状況もひと目で分かる(俺がちゃんと読めるかどうかは別である)。だが俺のポートフォリオは主に海外やよくわからないベンチャーに分散しており、パッとわかる情報が少なすぎるのが怖い所だ。海外の会社に至っては何をしている会社なのかも曖昧な場合が多い。そこを突かれ、

「海外の会社がたとえイイ感じだからって、実際にどこにどんな利権を持って内情がどうで財務が健全かどうかを確かめてから投資しなきゃ、そんなの投資じゃねぇ、博打と同じだ!」

と金融に大変詳しい人に言われた。全くもってその通りである。しかし、俺は金融業に関わった事がなく、残念ながら分析するだけの知識にまだ乏しい。だからといって辞めるというわけにもいかない。

「まぁそういうカモのおかげで金融業は成り立ってるんだけど」

返す言葉もない。

 

☆クッキークリッカー

要素が多くなりすぎて、結局また窓を開いたまま放置している。

 

☆ニュースピックしてくれるアプリ

自分で情報収集するのが面倒くさい。いちいちクローリングしてると一日が終わる。というわけでカメリオという情報収集アプリを入れてみた。今のところよく動いているが、欲を言えばもっとキーワードに関連した記事の文字部分を集めて1ページ内でゴリゴリスクロールして見ていきたい。広告などの兼ね合いもあってそういうのは赦されていないのだろう。広告業は夢の錬金術であり、呪いでもある。

しかしもうちょっと金融っぽいニュースを選んで拾ってはくれないものか。有料課金してしまったので1年はしっかり使ってみようと思う。

 

なんか今日は株と仕事しかしてないのでここらへんで。

アレグラの優しさが時に人を殺す(死因:鼻詰まり)

家族からの
「なんかパソコン青ざめてるよ」
というLINEで何もしていない筈のPCのブルーバックを知る深い悲しみ。


☆中国アプリのこと
一部の人には言うまでもないのだが、俺は料理が大好きだ。海外の料理を作ることに全心血を注いでる側面すらある。なので世界各国のレシピアプリをDLしてスマホに取り揃えているのだが、とかく中国のアプリは怪しい挙動に事欠かない。まずインストールするときの権限が全権限というのが最高にロック。他にそんな横暴なアプリはしらない。ホテルで例えると、料理人をホテルに呼んだと思ったら「今日からこのホテルの経営権は私が頂く事になった」って突如宣言されるようなイメージ。お前レシピアプリがシステムidやら起動してない時の他のアプリの稼働状況必須ってどういうこと?マイクとカメラの権限もあるじゃん。盗聴?盗聴なの?そして一応やっとかないと、と思ってネットワーク記録を取ると、やっぱり起動してない日ですら70kb程度の「何らかの」情報をどこかしらに送信している形跡がある。70kbなど大した容量じゃあないが、たかがされど70kbである。中文テキストで三万文字。ツイートにして220ツイート弱。バイナリならもっと数多の情報を送れるだろう。まぁ送られて困る事はあまりやり取りしてないが、どうにもこう行儀悪いのはムカつく。それでも十億人の人民が使っている、それが中国だ、と言われればそういう気もする。
行儀の悪さでいえば中国のLINE的なソフトことQQが群を抜いている(今その立場はWeChatというよりモダンなソフトになったが)。さすがにこれはあまりにアレなのでアンインストールしてしまった。こいつをインストールしてると先述のような横暴に加え、電池の減りがクソ早くなる上、「通知領域のアイコンを一瞬qqのアイコンで上書きして元のアプリのアイコンに戻る」というなんとも不気味な「わたし、みてますよ?」と言わんばかりのビッグブラザー的挙動をする。最ッ高に気持ちが悪すぎる。スパイウェアとかしこまれてないかな、と思うがウィルスソフトは反応しない。いやもうなんかセキュリティが全て骨抜きにされているんじゃないかという懸念すら湧き上がる。
日本的には他に選ぶソフトがあるが、中国人民的には選択肢は(金盾などのせいでアプリ通信も制限されるため)中国産アプリに限られてくる、と言うのは隣国ながら本当に軽くディストピアだと思う。おもしろい。
こういうのに実害みたいなモノを被ってるにも関わらず「おもしろい」とか言ってしまうのが俺だなぁと思う次第。


☆友人とのカフェめぐり
カフェーをはしごしてきた。もうちょい胃が調子良ければ回れるんだけどいかんせん最近胃腸の調子を崩していて、あまり甘いものを連続して食べたりはできない。もっといろんなとこ巡りたいのに友人にはなんか申し訳なく思う。ケーキはとても美味しかったし、紅茶も満足のいくものだった。しかし魔都は物価がホンマ高いな。
おそらく職業柄洞察力に優れている彼の視点、話は色々な意味で面白い。なかでも彼の担当教授のモノマネは似てるんだか似てないんだかわからないのに面白いからずるい。
彼はいつもより当社比多く喋っていたように思う。彼は自分由来のストレスの少ない万能感に溢れた奴ではあるが、それでも他人由来の事をどうこうするのはどうにも苦手らしく、なんかきっと季節的にも節目だし、聞いて欲しかった面白みやつらみみたいなのがあるんだろうかな、と思って聞いていた。
さほど意義深い返しもしない俺にできるのはいい感じの店に連れてってやることぐらいである。


☆クラクションが鳴らせない
車で移動することが多い地域に住んでおり、運転しない日のほうが少ない。故に運転は日常的動作として惰性感が出てくるのだが、それ故に性格が出てくる所が多々あるように思う。
たとえばクラクションが鳴らせないということ。長年車を運転していて俺がクラクションを自発的に反射的に鳴らしたのは指折り数えられる程度しか記憶にない。
クラクションは警笛故に、文句を反射的に相手に伝える、相手の安全を確保する、事故防止、という側面を併せ持っている。が、反射的にそんなことをするくらいならまずブレーキを踏んで左右後ろ確認して避けてしまうので、相手への注意や文句など二の次三の次であり、言おうかなって思った頃には時すでにお寿司🍣というかもう避けたあとだったりする。そういうので怒りを貯めたりするより「面倒を回避できた!」という気持ちのほうが9割増し強い。強く主張して俺が間違っていたらいたたたたまれないし。そうやって自己保身や面倒ごとの回避の後に自己主張を思い出す反射神経の弱さが俺なんだなぁと受け止める次第である。

いかだ焼きに夢を抱いていた事がわたしにもありました。

☆友人(先生)の味覚について

友人である先生(俺の事を社長と呼ぶ事に対する対義語的な通称である。尚俺は名前で呼ぶ)に対して

「麺が味の地平と言うが、カロリーメイトを食べ続けるお前がそれを言うの?」

と言った。

実はコレを言うのは2度や3度ではない。その度「そんなことはない。メイトは3口で食える」といった根本的にクソofクソな返答を頂くのだが、そうじゃねぇ死ね、と遺憾の意を表明したい。ちなみにそれ以外にあまり有用な反論は帰ってこない。猫舌だからってなんだそれ。焼き鳥結構即座に食ってるだろ。クソか。
食に関しては限りなく面倒くさいマンである俺は、だいたい常に食の大切さを力説している。食育って大事なんだぞ。

食育というのはこと日本で、こと若者にはバカにされがちな要項ではあるものの、文化資本と言うものの基礎を成す重要な礎である。ちゃんと栄養・食物繊維を取るというハード側面、味を楽しみ作りを知るというソフト側面の両方を得ろという事だ。それが文化だってことなんだよ。カロリーメイトを延々食い続ける事は、食物繊維の不足と文化的豊かさの不足が圧倒的に問題となる。

他人の事だからどうでもいいとかそういう事ではない。だって友人だぜ。友人の性の乱れが問題になったとき殴って止めるのは友人の役割であると数ある少女マンガで学んだし、やはり友人の食の乱れは口に料理を突っ込む事で解消すべきだとのだめカンタービレで学んだ。大切なことはマンガから教わった。そして食育、こういうのは草の根活動が重要だ。そもそも俺の上記の発言は先生が味覚音痴のクソだと思っているという誤解を招きがちだが(というか文脈上そう言ってしまっているが)、こと先生に関してここまで言うのは逆の思惑があり、先生の味覚をわりかし信じているからこそお口酸っぱめな態度に出るのである。

食べ物の味に興味が無いと言っている奴はかなりの確率で「そういう設定」を自分で作って、そのスタンスからの反論をしてこようとするという経験則がある。違うぞ。違うのだ。貴様は味がわからないという設定を様々な外的要因を使って肯定しようとしているだけなのだ。
いうなれば食の帝国フランスに対して対抗しようとしても出来なかったイギリスが
「味にこだわるとかwww紳士はそういうのしないしwww」
みたいな逆張りしちゃってるのと近い。俺が「あーこいつ実は味に興味が無いとか言ってるの嘘だな」って思うのは妙なタイミングで「あれ?今味に言及したよね?お前味解ってんじゃんどうしたの?」みたいな事が露呈する時だ。特に先生は自覚しているのか無自覚なのかわからないが、批判的な時は案外うるさい。味に本当に興味が無いならサルミアッキだって食えるはずなのだ。アレは欧州じゃ人気の菓子であり、つまり人間が食えない味というわけではない。好みの味ではない、というのはそれをより分ける能力・経験を有しているという事である。奴の味覚詐称にはリーチがかかっている。ちゃんとその能力を活かしてやれ。そして野菜も食え。

 

そんなかんじで今日も各方面友人たちには、ちゃんとしたもん食えよ!お前食えるだろ!俺が連れてったろか!?という事を言い続けている。

あでもお金がないってのは仕方ないと思うよ。俺もしばしば三食納豆だし。

仕事の手を止めて書くブログに依存性があるかは議論が別れる所だってばっちゃが言ってた

☆芸術について

考えろ。そして感じろ。

俺は芸術を観る時はそうするほうが良いと思っている。
こと日本では芸術を「わからなくてもいい、感じればいいんだ」という側面で語りがちである。入門はそれでもいいが、そんなのは超絶大嘘である。それは世の中にある芸術を1/4ぐらいしか理解したり把握したりすることができない。そんなん有り体に言ってもったいないのだ。チョーもったいないのだ。3/4捨ててるんやぞ!?いやむしろ1/4でも理解できれば良いほうだ。

これらは音楽でも、美術でもそうである。

現実には芸術は理解の為にたくさんの知識を必要する。「直感的に良い」というものがあるが、直感的に良いと思うその直感はすでに「直観」であり、脳の中の即時記憶のメモリに読み込まれた知識が脊髄反射的に答えを返しているだけだ。なので、学習がなければ直感的に良いと思える事は少なくなる。

もともと、美術も音楽も知識人と金持ち貴族達のものだった。そしてしばしば知識人は金持ちであったし、貴族は知に長けていた。ちょっと下ってもしばらくは文化的に豊かな人達のものだ。芸術は衣食住の十分に満ちた上に成り立つ。彼ら文化的な人々はそれを堪能する術に長けていた。それはつまり彼らが一定の教養を有し、同じ文化的文脈に立脚せざるを得ない世界を作っていたからである。

例えば音楽だったら(俺の専門は音楽なので)、宗教音楽のみだった時代は省くとして大いに発展した時代を見ると

※貴族のガールの会話だと思ってください

「ウフフ私ピアノを嗜んでまして。」
「あら素敵ね、わたしはフルートよ」「あら、せっかくだからこないだ出版されたモーツァルト氏の新曲でもセッションしましょう。楽譜もあるわ。」
「いいわ、でも最近の作品は対位法が複雑でうまく弾けるか不安だわ」
「あら内声を丁寧に追っていくのは楽しいのよフフ……」

みたいな会話をするなかで楽しまれてきた、高貴な嗜みから発展してきている。才のあるものはサロンでコンサートを開き、その大きめな「室内」で人を集めて聞いたのが「室内楽」なのである。集まる人は皆高貴なのだから、その芸術の解釈に必要な知識は多くても全く問題ない。理解できないほうが恥ずかしい世界だからだ。教養はあるほうがよい。

いやでもそのままでも解るものもあるじゃんという反論も多いにあると思うが、それは自然に学習した今までの人生の中での積み重ねで理解できるようになったというだけで、同じような文化文脈を共有していないのなら伝わらないのである。たとえばもし生まれてこの方一切マンガやアニメやラノベを見ていなければ、ライトファンタジー的な作品、お約束の乱発される展開、アニメ的な作品はひどく風変わりなものとして受け止められるだろう。また、世代間で娯楽の好みに差が出るのも文脈の共有によるものである。その時の新しい娯楽コンテンツや時代性を常に最も若い世代とともに学習しようという意欲を継続的にもてていれば、40代でも60代でもいくらでも今の最新のコンテンツを楽しむ事は可能だ。大概の人は社会に出たり、付き合う人が限定されてきたりという中で、コンテンツの文脈から取り残される事で一足飛びの受容ができなくなって娯楽から遠ざかっていくのだ。逆に、ちょっと前に戻ってコンテンツの連続性を追っていく事で脱落した文脈の流れに戻っていく事も可能だ。

つまり、すべては(意識・無意識を問わず)学習なのである。

もっと古い芸術の時代においても同じことだ。その当時の文脈を追うことで初めて作品を「観る」事ができるのだ。当たり前だ。俺らは当時その時を生きてない。そのままで解るわけがない。分かる部分は今もいきている共通の文脈を持つ部分の所だけだ。大切なのはそこで「俺の感性ではわからん」という自分の中に原因を帰属させてしまう事を避けることだ。もちろん感性的にダメなものというのは存在はするが、まずは「知らない世界が多すぎるだけ、もっと見れば解る」という心構えでコンテンツを受容していかないとそれすらわからない。逆に言えば知っていくことで確実にある程度のとっかかりは見つかるはずだ。

まずは知らなきゃすべてが始まらない。Don't think, feelではない。Think, and feelだ。

 

 

☆人への接し方

俺は人に厳しくする事が出来ない。

ほんの些細な事から割りと仕事に関わる所まで、例えば遅刻するときも(まぁ俺も遅刻はするよな)とかレコーディングの時でも(あとで俺が直せばいいだけだよな)とかそんなかんじだ。

人に厳しい態度を取ることは自分が自分に対してゲロ甘である故に一貫性上矛盾が生じてしまうからだ。なお自分に厳しくするという選択肢は存在しない。

もう一つ、わたしが厳しく接せられた場合には大概心をかなり頑なに閉ざしてしまう傾向がある子供だったからというのもある。(今もあまり変わってはいないかもしれない)

人の心を開く為にはまずその人の内側に相手が自分に、自分が相手に対する多少の精神的依存性を表面上でも持たせる必要があると思っている。多分これが親友のメカニズムだと思っているのだが、多少いびつな認識かもしれない。なんにせよ生きている以上なんらかの依存は必要だ。

依存状態にある相手からの働きかけなら全力で応じる。それはもはや相手の精神的なアセットが自分の一部として組み込まれているからだ。あるいはその逆だ。
それらで子どもと呼ばれる季節の間、俺がずっと抱えていた「優しくしてくれればいいのに」という不満を他人に与えない為の行動原理を守っている。
そうして「どんなにダメでも、生きているだけでそれでいいよ」みたいなたぐいの言葉で救われる人は大勢いる。俺は割りとこの手の言葉を友人にはかけてしまいがちだ。本当にそれでいいとも思っているし、発達した現代日本のインフラではそれを救える方法がいくつかあるからだ。

もちろん現実的回答では、それじゃぁまぁ、ダメなんだろうけども。惨めな問題はいくらでもある。けれどそういう精神的な飢餓感を慢性的に抱えている人にとっては砂漠の水筒に匹敵するほど泣きたくなる言葉だということも知っている。
だから、まずどうしても厳しくするよりは優しくしたいと思ってしまうのだ。

お通じって言っても居酒屋のお姉さんはそのまま表情一つ変えずオーダーを通したよ。

☆馴染みの店が無くなるという事

昔はよく行ってたカフェがとても遠くへ行くらしい。当時はよく通る道ぞいにあったのだが、今はそこを通る事もなくなったから少しだけ疎遠になってしまっていた。それでも月1ぐらいは行っていたのではないか。正直10年来食べ続けてきたので、飽きてないかと聞かれたら若干嘘になる。

まぁでもさりとてしかしながら、高校生ぐらいの時から行っていたからショックはでかい。なにより美味しい。そして他に代えがたい雰囲気がある。森の奥にあるような佇まいで、薄暗い店内、一点一点手作りのような調度品・宝石のような木漏れ日が通るガラス・レトロな木炭ストーブやドライフラワーなんかがそこかしこに設置されていて、理想とするキレイな森のカフェというイメージだった。森カフェのイデア

初めて行った時はその雰囲気に気圧され、自分のような子供が一人で行くのは場違いだったのではないかと感じていた。高校生ぐらいって、チェーンでない店に一人で入るのに気後れするような感情があるように思う。少なくとも俺には想定外の世界への畏れのようなものがある(ない人が羨ましかった)。だから何度もテイクアウトだけしては帰り、ある時数回目にしてようやく

「ここで食べます」

と言えたのだった。アイアムボンレスムチムチチキンジャストナウ。

その後は店主さんとも少し話すようになり、ある時はイベントのチラシを置いてもらったりしたこともあった。その節は大変お世話になりました。けどまぁ、高い天井に響くのが食器の音と空調のかすかな音、だいぶセンスのいいモダンなチョイスのBGM(エクスペリメンタルなアンビエントやニュージャズなんかも流れる!)ぐらいしか無いような、話し声が殆ど聞こえないタイプのカフェだから店主さんと話し込むコトもほぼなかったのだ。いや言い訳かもしれない、実際には話せばもっと話が弾んだのかもしれない。が、俺がもとよりコミュニケーションを積極的に取れない性根故にあまり多くの会話が発展しなかった事を、それでも少し後悔している。

今では近くに様々な選択肢、つまり様々なタイプの店が出来たものだからあえてここを選ぶ理由も強くはなくなった。けどそれでもなんだかんだ便利だし、なくなったらなくなったでやっぱり困るんだよな。

選択肢ができたという事はそれだけ近くに、種々の人の広げた色々な可能性が順調に広がっているという事だ。言い換えれば豊かという事でもある。豊穣の地・東京。最も飲食業なんてのは水物の傾向が強く、浮かんでは消え浮かんでは消えで1年持たない事も決して珍しくはない。奢れる前に久しからずや。好きになったものがある日唐突にそこで途切れる悲しみも大きい。店の消息を熱心に追うと、意外とどこかで新しいコトを始めていたりもする。それが意味するのは、同じではなくともいずれ別の可能性に出会えるかも知れないという事だ。自分の知らないうちに、全く別の店が彗星のごとく現れる事もよくある。大概がノーマーク。そんな嬉しさが日々にあるだけで希望っぽい。そしてそんな豊かな可能性にかけて、今日も俺はニューオープン情報を漁りつつ風呂に浸かる。

のどスプレーとリップクリームと保湿液ってどんだけ水分欲しがってんの?

そのうえお茶は大好き!一日1~2Lは飲みます!
もうこうなれば人間の90%は水でできているし、犯罪者の100%はDHMOを飲んだことがあるというのもあながち嘘ではないかもしれない。

 

【好きな映画・物語について】

俺はあまり映画を知らない。多動につき長時間座ってられないというごく単純かつ面倒くさい理由による。

連日の俺の脈絡ないしょうもない話に付き合ってくれてしまう友人2人に映画のオススメをきいていたのだが、世の中にはびっくりするほどホラー・サスペンス映画の名作というものが溢れているらしい。自分でホラー映画は見ないので出てくる名前出てくる名前全然全く一切合切知らないものばかりだ。ふたりともなんで見てんの?
映画って教養なんだな、とかそういう事を思うと同時に俺は不勉強な人間だという反省をする。でもこれからもあまり映画は見ないと思う。それでも映画を見たくないわけではない。人工神経ネットワークのように極彩色で複雑な乙女心は春のごとく。
どうにもこうにもビビリ故にホラー・スプラッター系を好んで見る事はない。絶叫コースターも乗らない。世の中には非現実的かつ高刺激性のものを好んで摂取するマゾが一杯いるんだなと思ったけど、俺も普段は局所的にドMなので人の事はいえない。
かと言ってサスペンスやドラマ、心にズッシリくる重い話なんかも見ててつらいのが解ってても見るかといわれたらそうでもないし、ギャグやコメディは笑えない事が多い。ハートフルとか虫酸が走るほど嫌いな事も多いし。アクション……うーん嫌いではない。けどアクションは大概話が毒にも薬にもならない。……そう、毒にも薬にもならないのが俺は嫌なのだ。あわよくば薬になってくれ。なんなら毒でもいい。頼む。そんな思いが心に募っては消え募っては消え。
というように世の中を時間と手間のコスパで見てしまう本当に浅ましいコスパ厨であり、自分にとって無駄な時間を出来るだけ多くとりたいというその怠惰な欲求のせいで映画すらマトモに見れてない。うわ自分で文章にしてドン引き。そんな馬鹿な。クソが。

そもそも映画にかぎらず、小説なんかでも俺の好みの作品とはなんだろうと思い返した所、幾つかの法則が見えてきた。この傾向がどれかあると琴線に触れるような気がする。

  1. ドキュメンタリーorノンフィクションベース
    本を読むのも同じく苦手なのだが(能動的行動が必要)、それでも苦なく読める本は何かというとドキュメンタリーやレシピ・哲学・技術書・経済書などの実用書の類だ。こないだ喜々として見ていた映画は生まれて初めて映画館に2回足を運ぼうかと思ったが、あれもノンフィクションベースの脚色映画である。ファンタジー好きではあるのだが、存外現実から生まれたものが好きなんだなとあまり受け止めたくない結果だ。けれど、現実から生まれたからこそ創作にはない割り切れなさや機微があるのかもしれない。あと、へえ~ってなりたい。知らないことをたくさん知れるというのもドキュメンタリーならではかもしれない。

  2. 見てカッコイイ
    そのまんまである。
    Joseph Campbellが言うには映画館は現代の神殿らしい。であるなら、映画は神殿で見る聖書と、神父様の説法にほかならない。イコンがあり、ヒーローである神の子がいて、そのドラマに心を震わしやがてソレが信仰になるのだ。きっと。多分。なら、そのヴィジュアルは努めてカッコ良くなくてはならないと思う。なんの為に宗教芸術があるのか。見たものにとって神話をよりドラマティックにするため、良さを引き立てるためだ。そのためには誰もが圧倒されるヴィジュアルが必要なのである。カッコ良さは正義。

  3. 設定がスタイリッシュ
    上記に繋がるが、舞台設定やキャラクターの造形がオシャレだと良い。これは本当にただの趣味だが、泥臭い映画は普通に見てて重苦しくなってくるので、できればスターバックスでマックを開き、ドバイのホテルで一夜を明かし、ガラス張りのビル街を通り、iPhoneFacebookを使いこなしている姿が普通に出てくるようなそういうなんか「いわゆるオシャレ」な設定だと楽しい。
    それ以外にもキャラクター像において中二くさい設定があったりするとなお良いのだが、そこまで来るならもうアニメでいい。

  4. 物語が複雑・情報量が多い
    語られる情報量が一直線ではなく、複雑な事態が同時に進行しているような映画は記憶との戦いという側面もあってスリリングで面白い。前のほうの項目でもいったが、へえーってなりたさが極まっている。物語や設定や話が複雑だと、自分の知らない概念や知識がバンバンでてきて、脳を楽しく刺激してくれる。そういう時はあまり眠くならない。映画館での痴態を防ぐことに一役かっていると思う。

  5. シンプルな答えが出ない
    世の中物語の力強さはシンプルであるかにかかっているが、物語がここまで反乱した現代においては過度にシンプルさが求められすぎていると思う。
    物語の途中が複雑でも、帰結をYES NOどちらかに寄せてしまえばそこまでの物語が紐で閉じられて終わってしまう。フタを占めることができない遠い場所を目指す答えが最後に現れる事で、読者が作者の思考力に打ち負かされるのだ。そんな物語がいい。

  6. いわゆる「芸術的な」映画
    そのカット必要だった?というような絵、暗示的なアングル、セリフ回し、音楽……そういう要素がつまった映画や物語は、深読みする余地が多くて視聴後にそれについて考える事が多くなる。おそらくそう設計されてもいる。しかもあまりに芸術的にすぎると、答えが用意されていないことすらある。そういう仕込みを一つ一つ読み解いていくのは最高に贅沢な時間だと思う。作品が終わっても作品がまだ延長されているような気分になる。

  7. ミュージカル(あるいは音楽物語)
    音楽は劇音楽しか生きられないとカール・オルフカルミナ・ブラーナを書いた人ね)が言ってもうすぐ100年ぐらいになる。実際にはもちろんそんな事はなかったんだけど、それでもある程度現在でもこの言葉は有効だと俺はおもっている。音楽は単体では生きられなくなりつつあるのは皆気づいている。その中でミュージカルというのは映画と音楽のいいとこ取りを行った延命措置として実に適切に機能している。説得力の弱さを音楽で補う事はもちろん、音楽を映像で補完すると人間の脳にとって何倍も音楽は面白いものに聞こえてくる。映像も然りだ。その作品を視聴した時に得る満足感は、それをただの映像作品・音楽作品として別々に見る時の数倍になると思う。だからといって良いかは不明だが、ミュージカルには逃れようのない力があるし、面白い事が多い。(でも言うてそんなに好きな作品はない。)

眠くなってきた。なんか思いついたら追記する。

映画館て首疲れない?

☆勉強するということ

故あって経済を勉強し直している。大した理由でも動機でもない。本当に自分の投資と、映画を見るためである。
最近勉強という行為から離れていると思うので丁度よかった。
勉強しようにも何をしたらいいかなんてあまりすぐ思いつくもんではない。何を勉強したっていいとは思うのだ。興味があるものでいい。

もともと成績が極端でガタガタしていて、お世辞にも学校の勉強に熱心なほうではないと思うし学校の勉強なんか大っ嫌いだった。
が、大学では打って変わって喜々として授業を4年まで最大コマ数で取っていた。競争相手のいない勉強は楽しい。自分の好きなものを好きなように勉強できる。意識しないようにしても学校や習い事なんかではどうしても他人がいて、無意識に比較されてしまうことが本当に嫌いで、もちろん競り弱いのもそうだが、負けず嫌いを発揮すると本来好きなものをいとも簡単に見失ってしまうからだ。もちろんライバルがいることでそれが有利に働くメカニズムもあるだろう。けど、僕にとっては孤独なほうが勉強がはるかに楽しいのだ。競争相手が多いと、大いに気力が削がれてしまう。

好きなことはやはり好きな様にやりたい。そうじゃなきゃ嫌いになっちゃうぜ!!

 

☆経済について

経済用語はカッコイイのでいいと思う。 それが問題を隠蔽し、信用のないところに信用を作り出し、信用を膨張させて、でみんながそれに潰される姿は見ていて本当に胸が締め付けられるほど素晴らしい。

金ってのは本来約束で、そのことを信用と言いかえて、チケットになってツールとしてまとめられ、その上に資本主義社会が成り立っているのだから、本質的にいつそれらが変化してしまってもおかしくないシロモノだと思う。でもそれは汚いものではなく、人間なるものの心身の延長であり、それ結局は単なる道具であるといっていい。

溜め込んでもチケットそのものに価値はない。使わなければ金は金として存在していないも同然だ。もっとそこに気づきを得るべきだと思う。人に信用を与えればいい。

ただ、その上でどんな頭のいい人がどんな騙し方をしてくるかは最低限知っていたほうがいいと思う。クソ理屈をこね回した信用の再生産は悪くないとされているからだ。その力が人間というものを文明的に押し上げてきた歴史があるからだ。そういうものに巻き込まれないか、あるいはもっと頭がいいなら利用するとか、そういう判断が最低限できるようにならないと、嫌なやつが無駄にのさばってしまう。

 

(この日記を書いてる最中に寝落ちたのが昨日です)

5年らしい

 

よういちが震災の時の気持ちをメモしていてあーそれめっちゃいい俺もやるべきだわやりたーいって思ったので書くことにした。
彼は良い小説家だ。

彼のような名文はかけないにせよ、自分の気持ちを並べるのは記憶が死ぬほど頼りない上に筆不精な俺にとっては少なからず重要な事だし、なにより筆が乗る日は多くないので全部書いてしまいたい。

 

 

あの日俺が何をしていたかメモが残っているわけではないので、記憶を頼りに書くことにする。

その時間、俺はトイレに篭っていた。ウンコだ。ウンコである。

節約の為日のあまり入らない薄暗いトイレに腰を掛けて優雅にお尻を拭き終わった直後ぐらいの話。
大きな地震特有の音が揺れに先行して届く感覚がして「あこれデカいな(ウンコがではない)」って想定した揺れの倍ぐらいの勢いでしかも長々と揺れてアトラクション気分を盛大に味わったのを覚えている。
4DXもメではない。4DXってそういう認識であってる?
揺れが収まるやいなやとりあえず不安に思いながらトイレを流して(流れた)家族の安否を確認したような気がする。
幸いすぐに全員連絡が取れたが、父の帰宅は遅くなりそうだった。
テレビをつけ、次に何をするかと言えばTwitterである。情報インフラは09年からTwitterに支えられているといっても過言ではない。
検索ボックスを大量につけ、ありとあらゆるフィードを流してキーワードを拾った。
あーこれは大災害だなぁとものの数十分で知ることになり、それと同時に不謹慎ながら俺は言い知れぬ高揚感を得た、んだったと思う。
不謹慎というこの言葉のせいで高揚感を得たことを表明することすら難しい時間がその後2年ぐらい続いたよね。
(当時はこの何か走り出したくなるような高揚感が何なのかは解っていなかったし、それを野次馬根性と断定してしまうのも少し違うような気がしていた。)
自分が想像以上に事態に悲しみの感情を抱いていなかった事を不思議に思った。あまりに大きな災害に対する憐憫という感情を基本的に持てないのだ。距離感が遠すぎるからだと思う。
東京で、しかも何ができるわけでもない人間だ。出来ないことを不安に思えないし、他人に対して同情の類が湧きづらい性質なのもあってきっとそんな感情しか抱けなかったのだと今は分析している。
とりあえず義務的に居間で余震に怯える母を安心させつつ、とりあえず窓を簡単に開けるようにして退路を確保していった。その他諸々とりあえず次の緊急に備えられるようにした。

一方Twitterでは普通にふざけていた。画面越しでもみんながいるというのは、本当に人の気を平和にするものだと思う。SNSが今も心のひとつの拠り所となっているのは間違いない。
つぶやきを見たが、断水だったか忘れたが、その後風呂の掃除ができない事に憤っていた。なんなんだ。平和ボケも大概にしろ。
子供は元気に外で遊びまわっていた事を、外からの声で知った。基本的に片田舎は平和だった。帰宅難民も交通機関の乱れも画面の中でしか知らなかった。
原発の話は当初かなり楽観的に見ていた。ネットの空気は割れていた。基本的に陰謀論には与したくないので、政府の発表をとりあえず信じる事にした。
結局それは混乱して二転三転し、最終的に放射能汚染の状況を知るまでにだいぶ時間がかかった。当時の俺の楽観さには恥じ入るものがある。その後「信じること・信じ過ぎない事」について反省することになった。

地震の事態全容が解るようになり、とにかくすぐ思った事は「ああこれで日本はしばらく非日常に入る事になるなぁ!」という事だ。
戦後以後復興、競争、発展とテーマを変遷させ、ゴールである頂点のあとバブル崩壊、その後の長い停滞と平和の中で生まれ生きてきた僕達にとっての初めての社会的なゆらぎが発生した。
俺たちにとってはそんなこと生まれて初めてだ。大仰な話だが少なくとも今も思っている。
そうして大きな傷を代償にして、新しい目標を得たのだろう。
地震後の非日常が長く続くという思想的な期間が継続するという事で、日本人は戦後初めて思想や行動原理を異にする人と共に生きているのだという事を実感したんじゃないか、と、わりと早い段階で考えた。ストレスをかけられたとき人がどう動くかで本質が見えるとはよく言うが、人々の間に全体的に広く厚くストレステストされたのだと思っていいと思う。
俺の家族ですら刹那主義的な俺と冷笑的な弟、安全であろうと過信する母と、危険を必要以上に考える父でやや思想的な断絶があった(危険厨と安全厨という言葉に揶揄されたのも懐かしい)し、ネットではもっと悲惨な例をいくらでも見たし今でもきっと見れる。

 

ネットでは本当に本心だろうがテンプレートのような憐憫の言葉が早くから並び、哀れみの海と表現される世界が広がった。

そして慰問的な作品を発表するアーティストが続々現れた。アーティストは作品に理由を欲しがるから、言葉は悪いが「うってつけの状態」だった。
俺も発表しようかと思った。愚かにも力の活かせるチャンスだと思ったからだ。でも、それは今じゃないかもしれないという葛藤もあって、しばらくは状況を伺っていた。
しかしそれが本当に即日の段階では意味のない事であり、高揚感に突き動かされたアーティストの先走った力のなき優しい行為だったと知るのにそう時間はかからなかったように思う。
そしてそれらはすぐに批判にさらされる事になった。創作が力になるフェーズは事件が記憶になってからだという事でだ。
不謹慎というワードでなんでもブロックすることができたの本当に狂気だったよね。
恥ずかしながら俺は行動が遅い事によって批判を免れた。なんて情けない話だ。いや本当に。チキンすぎて恐れ入る。
手の遅さ故に体面的賢さを保てた創作者は恐らく俺だけではないんじゃないかと思っているが、俺だけだったらごめんなさい。

でもその後地震をきっかけに何かが変わったと思い、災害に直接関わらずとも何か新しい行動ができるんじゃないかと思った人は多かったはずだ、と、思う。
それが人々のボーナス的な原動力になっていた事は間違いない。どれだけの実を結んだかは知らないが。少なくとも俺は行動する理由の一つになったし、今も続いている。


ライフラインの問題になった時クリエイターてのは本当限りなく無力だ。「衣食住が満たされて初めてアートは意味を成す」と教授は言っていた。
引きこもって普段体力もなく、他人を生かすに必要なスキルにも縁遠く、募金できる金もそんなにないアーティストは、ハッキリ言ってお荷物だ。
だから思想的な問題にのめり込んでいく人が多いんだが、もちろん俺も例外ではなかったと思わされている。
今は幸いアートが意味を少しでも持ちうる時期に来たと思うが、しかしそもそもアートの意味が半分ぐらいごっそりコモディティ化されたようにも感じている。

そういえばボランティアには行った。一回行った後、時間を置いてもう一回行った。
一回目はボランティアバブルともいえる人ごみの中のゴミ拾いだったが、二回目は誰もいなかった。そして、行った作業は二回目は震災の記憶の保全というか、慰問に近い内容だった。平たく言ってやることがなかった。
恐らく今もまっ平らのままの街は以前と同じ形で復興する事はないだろう。恐らく経済的に重要な部分ではないのだ。残念な事だが、そこはもう時が終わってしまった場所なのだと思った。
それでもそこに思い入れのある人はいて、微力ながら記憶を受け継いでいるのだけれど、少なくとも今まだそれを復興する力はどこにも残っていない。
そして、恐らく完遂しないのではないかと考えている。利用方法があれば別の形で土地は使われ、街はその形をダイナミックに失っていく。道とねじ折れた外灯だけが残っていた。

 

社会は震災後アップデートされてきたと思う。どうしようもない各思想的派閥の対立から、対立そのものが周知されることによる「ああ、いつものかよ」っていうマンネリ化によってだ。
進化していない部分はもちろん大量に残されてはいるけれども。
しかしまぁ、5年経ったらしい。ある意味で僕の中でもあの時から時間は止まっている。
ネットは時間に対してあまりにルーズだから、ネットで生きている僕にとっての5年はあったようななかったような、茫洋とした巨大な空間だ。


しかしもう自分も変わらなくてはいけないと、どこかで気づいているのだ。
そんな気もしている。

リップクリームは偉大なり。クリを崇めよ。

日記的なメモとしてテスト。

タイトルと内容は関係がない。唇の調子はおかげで極めて良好である。

 

 

☆クリエイター精神みたいな話

高いプライド(別に悪い意味ではなく)を持って働いているクリエイター達は、非クリエイターからナメられるとすぐ戦闘態勢に入ったりする。そういう事象に、こよく出会うわけだけど、個人的にそんな勢い持って人と対峙するのが謎すぎるのだ。戦いは避けるに越したことはない。俺は粗野で乱雑だが、非暴力主義者である。丁寧で仕事は出来るが戦闘民族みたいな人たちとは精神的にマリアナ海溝ぐらい深い溝がある。別に僕が仕事を蔑ろにしているわけではない。俺の仕事のクオリティだって高いと思っている。しかしそれとこれとは無関係だというのが俺の主張だ。更に言うなら、プライドの高さと仕事のクオリティだって無関係だと思っている。誠実さが常にいい仕事を生むわけではない。金を生むわけでもない。そんなのは巡りあわせとか運とか偶然のささやかな一致に過ぎない。姿勢とかそういうのを実利の因果に持ち込むのは大嫌いだ。

彼らが言うには「ナメる人はプライドを持ってないからこっちの仕事を楽だなんて事を言うんだ」みたいな。いやでも他人の芝生は青く見えるもので、クリエイター業なんていう非日常的であまり関わりのない仕事の人の事を羨ましく思うのはある種当然なのではないか。彼らはこっちがヴェールに包まれて見えてないのだ。

逆に俺たちはクリエイティブ系スキルを育てて来なかった、とても通常社会的なリーマンのつらみとかそういうのから縁遠いわけで、そういうのを一足飛びで反撃に向かうのってなんか大人気ないというか、そこまで怒る事ではないような気がするのだ。てか正直理解不能だ。解らない人には形だけでも寄り添ってさしあげろ。争いは防げるでしょ。

 

☆がんばらないこと

原体験を遡ると、俺は本当に「頑張れば達成する」みたいな事象に対して殺意のようなものを抱いているのだと思う。些か過激な表現だが、うまい表現が見当たらなかったので便宜的にそう言わせていただく。

芯が恐らくそれなんだろう。思考の変遷は激しいけど、そこだけは物心付く前から変わってないような気がする。

幼稚園の頃ぐらいから、恐らく一般的なレベルで「頑張らされる」事は多かった。多分。頑張れば達成感があるとか。もちろん結果的にそれを達成することだってあるが、達成感などというものを抱いたためしは一度もなく、疎外感と孤独感とどうでも良さが心に去来するのだ。結果は結果で、有利だったらラッキー、不利だったら残念。それだけに過ぎない。

頑張るってことは辛い事だ。僕は辛い事が大大大大大大大大大大大大嫌いだ。成長が出来るとかどうでもいい。好きなことでも成長はできるし、成長なんざ勝手についてくる。結局がんばらないレベルでも出来ることが滅茶苦茶多い。頑張ったって出来ない事もある。(同時にそれは出来ることだってもちろんあるということだ)それを頑張ったせいにはしたくない。出来なかった時不幸すぎるでしょ。うっかり他人を攻める理由にもなっちゃう。

頑張ろうとすると心が折れる。俺はもう本当些細な事でうっかりポッキリすぐ折れる。だから折らないよう細心の注意を払って生きるようにしている。折れない為に何が必要かといえば「ただ淡々とすすめること」だと思う。

例えば終電のがして15km歩くよまじつら……リスカしょ……みたいな時、時間とか距離を確認したりすると普通に辛い。あと10kmあるとかそういうの考えてしまう。ただ何も考えず家で居間に向かうような体でゆっくり 本当にゆっくり音楽聞いたりWEB記事確認したりそれについて考えたりしながらゆっくり家に帰る。それだけでだいぶ楽だ(と個人的には思っている)。家でゴロゴロしてたとか思えばいい。目標とか絶対見ない。自分が今進んでいる位置とかも確認すると辛い。

それと同じで、目標を確認して頑張るぞ!みたいな負荷を心にかけるとうっかり折れて足を止めかねない。

でもここらへん、目標が見えないと辛いっていう人も多いらしいから俺みたいな心すぐ折れるマンにしかわからない話なのかもしれない。

恐らく俺みたいに何も考えずルーチンを繰り返すの別に苦じゃないですみたいな人はメンタリティ的にクリエイターに向いていないのかもしれないが、メンタリティで人間のスキルは決まらないのである。俺のスキルがクリエイティブにしか適正がなかったのだからやれることをやるしかないのである。はぁつらリスカしょ……。

 

 

 

このブログは日記なので唐突に始まり、唐突に終わる可能性があります。